ボストン郊外の街・プリマス

ボストンから車で1時間ほどのプリマスは人口が5万人ほどの町ですが、アメリカでは知らない人がないくらい有名な町です。17世紀半ば、清教徒と呼ばれる人々が宗教の弾圧を逃れ、自由の新天地・アメリカにやってきました。彼等がアメリカで一番最初に定住に成功したのが、ここプリマスであり、ここはアメリカの発祥の場所なのです。街には清教徒にちなんだ見どころがたくさんあり、日本人が京都・奈良を訪れるように、アメリカ人もアメリカの原点を知るためにここにやってきます。

清教徒たちは何故アメリカにやって来たか

プリマスのことを説明する前にまずは歴史的な背景を少し説明します。とにかく見どころが知りたい人は
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16世紀、イギリスではイギリス国教会を信じない人々は異端視され、弾圧を受けていました。セパラティスト派(分離派)の人々は内密に集会を持っていましたが、見つかれば投獄・むち打ち刑が待っていました。この迫害から逃れるために、人々はイギリスから宗教寛容政策を取っていたオランダ・アムステルダムへ向かいます。オランダはイギリスからそれ程遠くなく、宗教の自由を満喫できるはずの地でした。ところが、もともと田舎で農耕生活を営んでいた彼等にとってアムステルダムでの都会の生活はなじめないものであり、大学があり落ち着いたライデンの町へとさらに移住します。自由に集会も開けるライデンでの生活は1609年から12年間にも及びます。ところが、アムステルダムとは違った新たな問題が生じてきます。それは、オランダが彼等の国ではないという外国生活の問題でした。まずは、移民の人々には過酷で賃金の安い仕事しか見つからなかったこと。さらに子供達が次第にオランダの生活に慣れてしまい、もともとの伝統・信仰の継続にも問題が生ずるという問題もでてきたのでした。事態が深刻になるに伴って、3度目の移住先としてアメリカの名前が上がってきたのでした。彼等は一旦イギリスに戻り、ヴァージニア植民地に定住する許可を得て、いよいよ自由の新天地・アメリカをめざすことになるのでした。

メイフラワー号の航海

1620年夏イギリス・サザンプトンからアメリカに向けて、「スピードウエル号」「メイフラワー号」の2つの船が出発しました。ところが、出発してまもなく「スピードウエル号」に水もれが発見され、2度もイギリスに戻ることになります。結局、「スピードウエル号」の利用はあきらめることになり、「メイフラワー号」のみがアメリカに向かうことになります。予定通り7月の末に出発していたならば、9月にはアメリカに到着していたはずだったのですが、結局「メイフラワー号」が出発できたのは9月6日になっていました。
    

「メイフラワー号」に乗船していたのは、102人の清教徒と27人の船員でした。もともとは、ヴァージニア植民地(現在のニューヨーク市のあたり)のハドソン川河口あたりを目指していたのですが、寒い冬の到来・ケープコッド周辺の座礁の心配などによって、急きょケープコッドに碇を降ろすことに決めます。2ケ月にも及ぶ長い航海の間に人々の疲れは限界にきていたのでした。当時は冷蔵設備がなく、食料は乾燥したものか塩づけにされたものだけでビタミン不足による病気に苦しみ、さらに水の不足から着ているものの洗濯もできずに不潔な環境の中にいるしかなかったのです。

1620年11月11日、「メイフラワー号」はケープコッドの先端・プロビンスタウンに碇を降ろします。イギリスを出発してから66日後のことでした。彼等が持っていたヴァージニア植民地に定住する許可証は全く意味がないものになってしまったので、新たにメイフラワー号の誓い(メイフラワーコンパクト)を結び、41名の男性がサインをしました。国王からの新しい許可証が発行されるまでは、このとりきめに従って自分達の植民地を作ることが確認されたのでした。

プリマスへの定住

「メイフラワー」号が碇を降ろしたプロビンスタウン周辺には定住に適した場所がなかったため、清教徒たちはあたりを探検して、定住のための場所を探さなければいけませんでした。「メイフラワー号」の航海士が定住に適した場所を偶然に知っていました。それは1614年にこのあたりを探検したジョン=スミスの地図にプリマスと記入されている場所でした。余談ですがジョン=スミスはあのディズニー映画「ポカホンタス」にも登場しますね。ダートマス、ポーツマスなど、地名の後ろにマウスという言葉が入る場所には、天然の良港がポッカリと口を開けている地形になっていることが多いのです。プリマスも例外ではありませんでした。ジョン=カーバーら、代表者が探検にでかけると、船がつけられそうな港・清水の流れる小川・農耕に適した土地などを見つけ、ジョン=スミスがプリマスと名付けた土地に定住することに決めました。

彼等がプリマスに移住したのは、12月に入ってからのことでした。長い船旅の後の疲れ・新鮮な食料の不足に加え、ニューイングランド地方の冬の寒さが人々を襲いました。住む家もなかった清教徒たちは、日曜日以外は毎日家を作るなどの作業に従事していたことも、体を弱らせる原因の1つになりました。折角、長い航海の末にアメリカにたどりついた人々も最初の冬を越せないままに、約半数が亡くなってしまったのでした。清教徒たちを乗せてきた「メイフラワー」号は1621年4月5日、再びイギリスに向けて出発しました。苦しい生活にもかかわらず、イギリスに戻る道を選んだ人は1人もいなかったのでした。

大酋長・マササイトとの出会い

年があけ、1621年の春がやってきました。長い冬が終わったとはいえ、慣れない土地での生活に困り果てていた人々の前に1人のインディアンがやって来ました。彼の名前はスクアント。スクアントは探検に来たハント船長に捕らえられ、奴隷としてヨーロッパに売られたのですが、何とか逃げて戻ってきたという過去を持っていました。そのために、英語を話すことができました。スクアントと清教徒の人々はすぐに親しくなり、プリマス周辺に住むインディアン、ワンパノアーグ族の大酋長・マササイトに紹介しました。

マササイトと清教徒の人々はお互いの安全・信頼のために平和条約を結びます。これはアメリカにおける最初の相互条約で、1621年5月21日に締結されました。マササイトを初めインディアンたちは、清教徒の人々にプリマスでの生活の仕方を教えました。魚がたくさん捕れる場所、鹿や七面鳥の捕まえ方、どの植物が食べるのに適しているのか、薬になるのかなど。さらに、にしんを土にうめて肥料にして農作物を植えるやり方、このあたりの気候にはインディアンコーンの栽培が適していることなど。インディアンの助けがなければ清教徒たちは、どうなっていたのでしょうか。

    

秋になり、収穫の時期を迎えました。日曜日以外は1日中働いていた人々も収穫を祝うお祭りをすることに決めました。日頃の感謝の気持ちを込めて、マササイトを初め90人ものインディアンも招待され、3日間にもわたって収穫祭が行われました。これが、アメリカで盛大にお祝いをされる「サンクスギビングデイ」(11月第4木曜日)の始まりだと言われています。プリマスはイギリスからやってきた清教徒たちが始めて定住に成功した町であるだけでなく、サンクスギビングデイの発祥の地でもあるのです。
いよいよ次は見どころの紹介です。