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ビーコンヒル
ビーコンヒルの歴史
17世紀ビーコンヒルは、現在よりも約18メートルも高くて3つの丘がありました。それぞれに名前がついていて、現在のガバメントセンター周辺にあった丘がコットンヒル。当時ボストンに住んでいたジョン・コットンにちなんでつけられ、1835年に住宅地を作るために丘が削られるとペンバートンヒルと名前を変えました。
真ん中にあったセントリーヒルが一番高く、ルイスバーグスクエアの近くには3つめの丘マウントバーノンヒルがありました。これらの3つの丘を総称してトライマウンテンと呼び、現在もその名残りとしてトレモント通りが存在しています。
初めての住人
ビーコンヒルに初めて居住したのはウィリアム・ブラックストーン牧師でした。彼はキリスト教の布教のために1623年にマサチューセッツ州ウエイマスに到着し、1627年に現在のビーコンヒルに引っ越してきました。当時、ビーコンヒル一帯はネイティブアメリカンたちにショーマット半島と呼ばれていて、彼の他には誰も住んでいませんでした。彼はボストンコモン脇のスプルース通り周辺に住居を作り、りんご園を作り、200冊以上の蔵書を持つ図書館も持っていました。彼は町の喧騒を避けて、人里を離れて、1人きりの生活を楽しんでいたのです。
1630年イギリスから清教徒たちがやってきて、チャールス川を渡った対岸にあるチャールスタウンに定住しました。チャールスタウンには塩分を含んだ水しか出てこなかったため困っている清教徒たちを、ブラックストーンはショーマット半島に案内しました。ショーマットとはネイティブアメリカンの言葉で、きれいな水のある所という意味だったのです。
清教徒たちは、彼らの出身地であるボストンと名づけてショーマット半島に居住し始めました。清教徒たちの人口は徐々に増え始め、平穏な生活を乱されることとなったブラックストーンはロードアイランド州に移住します。彼は、1675年にロードアイランド州にて亡くなったと記録されています。
ビーコン
1634年に当時一番高かったセントリーヒルの頂上に、ビーコン(のろし台)が建てられました。外敵の侵入など、何らかの危険が迫った時にその危険をいち早く人々に知らせる目的で、誰からも見えるように一番高かったセントリーヒルがその場所に選ばれたのです。当時、セントリーヒルは現在よりも22メートルほど高く、ビーコンは20メートルほどの高さがあったので、ボストン中から見ることができました。ビーコンの一番上にタールの入ったバケツをつるして、緊急時にはタールに火をつける仕組みになっていました。清教徒はネイティブアメリカンたちといい関係を築いていたので、幸いなことにこのビーコンには1度も火がつけられることはありませんでした。
その後この辺り一体をビーコンがあった丘ということで、ビーコンヒルを呼ぶようになりました。現在このビーコンがあった場所は州庁舎の裏庭になっていて、円柱の記念碑が建てられています。
ビーコンヒルの開発
1795年にマサチューセッツ州庁舎が建築されたのと同じ頃、マウントバーノン土地所有者組合が設立され、ビーコンヒルの開発が大々的に始まりました。組合のメンバーには、建築家チャールズ・ブルフィンチ、ハリソン・グレイ・オーティス、ヘプジバ・スワンなどが含まれていました。組合は肖像画家として有名なジョン・コプリーの所有していた土地を含め、ビーコンヒルの広大な土地を購入しました。組合は主にマウントバーノンの丘を削り、富裕階層を対象にした住宅地の開発を行います。
また同時期に他の2つの丘も同じ運命をたどり、ビーコンヒルは全体的に約20メートルも標高が低くなりました。削られた土は主に、現在のヘイマーケットスクエア周辺にあった巨大なミルポンドの埋め立てに使われました。ノースステーションはちょうど埋め立てをされた地域にあるので、「ノースステーションはビーコンヒルの上に建っている」と言われているのです。
チャールス通り
1803年から1805年にかけてマウントバーノンの丘の西側が削り取られた時に、チャールス通りは作られました。当時道の両側は居住地区で、ケンブリッジ通りとケンブリッジ橋(現在のロングフェロー橋)をつなぐ通りとして栄えました。交通量の増加に伴い1920年代には道路の幅が約3メートル拡張され、ミーティングハウスを初め通りの西側にある建物は場所を移動することになりました。そのため、丘に近い東側にグリークリバイバル様式などの比較的古い建物が残っている様子を見ることができます。
通りにある多くのお店がビクトリア時代のような看板を出しているのは、19世紀にお店で働いていた従業員たちがほとんど文盲であった名残りと言われています。看板には絵や彫刻が施されていて、ひと目で何を打っているのかがわかる仕組みになっているのが特徴です。また、必要以上に大きかったり派手な看板は禁止されているので、日本でも人気のあるコンビニエンスストアでもあのお馴染みの赤・緑・オレンジの看板が使われていません。
ルイスバーグスクエア
ロンドンの広場をモデルとしてマウントバーノン土地所有者組合によって、1826年に設計されました。もともとはマウントバーノンの丘の頂上だった所で、1745年のルイスバーグの戦いから名前がつけられました。中央の楕円形の公園は、ルイスバーグ広場管理組合によって維持・管理が行われていました。公園の周りにある家々から管理費を集め、公園内で取れた薪でさえ各家に均等に分配されました。公園は柵で囲まれていて、組合に加入する家の住人のみが鍵を開けられるようになっていました。このシステムは、全米初の住民による管理組合といわれています。
広場の周りの家々は1835年から1847年の間に建てられたもので、グリークリバイバル様式が取り入れられています。公園の両端にある2つの像は、3番地に住んでいた地中海商人ジョセフ・イアシギが1850年に贈ったものです。1つはクリストファー・コロンバスで、もう1つは紀元前530年頃に活躍したギリシャの政治家アリステデスです。19世紀当時は「若草物語」で有名なルイザ・メイ・オルコットが住んでいたことで知られ、現在は政治家のジョン・ケリーが家を所有していることでも有名です。
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