アムハースト

アムハースト周辺には5つの有名な大学があるので、「タウン・オブ・5カレッジス」とも呼ばれます。5つの大学とは
・スミスカレッジ
・マウントホリヨークカレッジ・ハンプシャーカレッジ
・アムハーストカレッジ
・ユニバーシティーオブマサチューセッツ(U MASS)アムハースト校です。5つの大学内ならどの学校の授業でも自由に履修することができるし、図書館なども利用可能なシステムになっています。5カレッジのシステムについて詳しく知りたい人はhttp://www.fivecolleges.edu/へどうぞ。

アムハーストは典型的な学生街で、観光のためにわざわざ行くところではないかもしれませんが、街の中には日本にゆかりのある場所がたくさんあります。街の名前Amherstですが、アーモスト(同志社関係の人々はこう呼ぶ人が多い)・アマースト(街に住む人はHを発音しないで、こう呼ぶする人が多い)といろいろな発音の仕方が存在するようです。このページでは一番スペルに忠実なアムハーストで統一したいと思います。また、アムハーストは岩手県金ケ崎町と姉妹都市の関係を結んでいます。左の写真に写るタウンホール周辺は街の中心に近く、パーキングできる場所もあるので便利です。

セブンシスターズ

5カレッジスの最初の2校、スミスカレッジとマウントホリヨークカレッジはいずれもセブンシスターズと呼ばれる名門女子大学。セブンシスターズとは19世紀に創立された名門女子校7校の総称で、星に姿を変えたアトラスの7人の娘たちにちなんでこう呼ばれます。男子のアイビーリーグのようなものを想像したらいいかもしれません。

アメリカで最初の女子大はマウントホリヨークカレッジで、1837年に創立しました。日本でも旧制の学校のほとんどで女性を受けれ入れていなかったように、アメリカでも大学で女性が勉強するということはそれまで許されていなかったのです。19世紀後半になって、やっと女性が大学に進学できる社会的な基盤が整ったということになります。マウントホリヨークをモデルとして、その後東部には次々に名門の女子大が作られることとなりました。セブンシスターズには他にバーナード、ブリンマー、ラドクリフ、バーサー、ウエルズリーがあります。バーナードやラドクリフは、それぞれコロンビア大学、ハーバード大学と密接につながりがあります。

行き方:アムハーストまでは2つの行き方があります。
その1・マスターンパイクから91号線ノース(途中何ケ所かシーニックドライブがあります。それほどキレイではないような気もしますけど)へに乗り、出口19番から9号線イーストへ。9号線に乗ったらすぐにコネディカット川を越えるので景色を楽しんでね。ハードレーを抜け、ハンプシャーモールが右側に見えてきたらもうすぐアムハーストの町です。U MASSに行くのならば、ダウンタウンに入る手前をサインに従って左に曲がってください。ダウンタウンはアムハーストコモンの手前(South Pleasant St.)を左に曲がった所です。この方が時間がかかりますが、ほとんど高速道路のドライブです。
その2・マスターンパイクの8番・パルマーの出口で降り、その後はサインに従って行きます。こちらの行き方の方が1番よりも早く、ベルチャートタウンなど途中にあるかわいらしい町を抜けていく楽しさも味わうことができます。ただし小さい街を抜ける細道を行くので、アムハーストへのサインを見落とさないように(参考までに。32号線、20号線、181号線へとドライブします)。9号線に入りアムハーストカレッジが左側に見えてきたら、アムハーストのダウンタウンです。

もっと周辺を知りたい人はhttp://www.tig-online.com/amhst/index.htmへどうぞ。オーバービューとダウンタウンの2種類のマップを見ることができます。

お腹がすいたらクロワッサンはいかが?

アムハーストコモンの周辺は典型的な学生街。かわいらしいお店やレストランがたくさん並んでいます。その中でもポッキーのお気に入りはブラックシープというカフェ。デリも充実していますが、おすすめは焼き立てのクロワッサン。値段はちょっと高めな感じもしますが、とってもおいしい。パンは弾力があって、フィリングはしっとり。早めに行かないと売り切れの可能性もあります。アムハーストコモンからもすぐの、Main St.沿いなので、よかったら試してみてください。詳しくはhttp://www.blacksheepdeli.com/へどうぞ。

ウィリアム=スミス=クラーク博士

左の写真はアムハーストの街の中に今も残るにれの木。クラーク博士が札幌から種を持ち帰って育てたものです。街の人々はこの木をチャンピオンツリーと呼んで、今でも大切にしています。この木は現在もクラーク博士の名をとどめる数少ないものの1つだと言えます。この木はロードジェフリーインとタウンホールの間にあります。余談ですけど、数年前まではタウンホールの脇ににクラーク博士にゆかりのある物が残っていました。それは幅2メートル、高さ60センチくらいの植木鉢のような形をした台座で、クラーク夫人よりアムハーストの街へ寄贈と書かれていました。多分、婦人がクラーク博士の銅像を建てようと思ったのにもかかわらず、何らかの理由で実現しなかったのだと想像されます。でもこの台座もいつのまにか無くなってしまいました。今ではそんな台座があったこともほとんどの人が覚えてないと思います。

「ボーイス・ビー・アンビシャス(少年よ大志を抱け)」の言葉で有名なクラーク博士の名前は誰でも聞いたことがあるはず。でも彼がどんな人だったのかということはあんまり知られていないように思います。先ずは彼の生涯について簡単に書いてみます。

1826年7月31日 マサチューセッツ州アッシュフィールドに生まれ、年少の頃イーストハンプトンに移る
1844年 ウィリストンセミナリーで学んだ後、18才でアムハーストカレッジに入学 
兄弟が多かったこともあり、学費の支払いには随分と困ったようです。実際、学費が払えないので大学を辞めようかと思ったことも何度かあったと手紙に書いています。しかしこの問題は、彼が鉱物学研究のために集めた標本がいい値段で売れたことによって解決し、学業を無事に続けたのでした。
1850年 ドイツ・ゲッチンゲンにあるゲオルギア・アウグスタ大学に入学 
隕石に含まれる金属の化学構造をテーマとする論文で地質学の博士号を取得
1852年 母校・アムハーストカレッジに講師として迎えられ、教鞭を取りました。
翌年には幼馴染みのハリエット=リチャーズと結婚。ちなみにハリエットの父は、クラークの母校・ウイリストンセミナリーの創立者でもありました。
1861年 マサチューセッツ第21義勇軍少佐として南北戦争に参加
ノースカロライナ州まで遠征し、数々の武功を樹立。大佐から准将にまで昇格。
1863年 新設マサチュセーッツ農科大学(後のU MASSムハースト校)開校
1862年に可決されたモリル土地法(大学を新設する州に対して土地を無料で交付する)によりマサチューセッツ州議会が決めた大学の設置に対して、クラークらはアムハーストに農科大学を誘致する運動を積極的に行ないました。豊富な知識と経験を活かしたクラークの講議は人気があったそうです。
1876年 第3代目学長に就任
明治政府による日本の北海道に近代的な農業学校を創立したいという熱心な意向に打たれ、日本へ行くことを決意。マサチューセッツ農科大学の評価を高める絶好のチャンスでもあると考えたのでした。
1876年5月15日 日本へ向けてアムハーストを出発
クラークはマサチュセーッツ農科大学の卒業生の2人:ホイーラー(土木技師。測量調査や鉄道施設のための調査などを行なった)、ペンハロー(化学、英語の教師)の2人と共に日本へ渡りました。サンフランシスコから船に乗り横浜を経由しての長旅で、札幌に到着したのは7月31日のことでした。8月14日には札幌農学校の開会式というあわただしさでした。
1877年4月16日 日本を出発
少年よ大志を抱け!

この別れの日に、札幌から20キロほど離れた島松(現・北広島市)まで同行した学生たちに向かってあの有名な「ボーイス・ビー・アンビシャス」の言葉が残されました。別れを惜しむ学生達に向かってこの言葉を叫ぶなり、クラーク博士は馬に乗って林のかなたに姿を消したそうです。このドラマの1シーンのように劇的な別れのために、学生達の心にクラーク博士の言葉が深く刻み込まれたわけです。また安東幾三郎が農学校の機関誌「憲林」に寄せた文章には、クラークの残した言葉は正確には「Boys be ambitious like this old man.」であったと記されています。

クラーク博士が別れの言葉を残した島松駅逓は、運送と宿泊のために人馬と駅舎を備えた北海道開拓初期の施設です。現在は、当時と同じように復元され国指定の史跡として一般に公開されています。詳しくはhttp://www.city.kitahiroshimaへどうぞ。

ちょっとだけオマケ。北海道大学創立100周年を記念して、明治31年に発行された「札幌農学校」が1975年に北大図書刊行会から復刊されました。札幌農学校の過去、現今など、漢文調のロマンに満ちた名文で農学校の全容を紹介し、札幌農学校を多くの人々に知らしめることになった本だそうです。

1886年3月9日  59才(60才の誕生日を目の前にしながら)で病没
故郷に帰ってからのクラークの晩年は失意の連続だったようです。大学を辞任した後に始めた鉱山経営(クラーク・ボスウェル社)にも失敗し、倒産をめぐる裁判にも悩まされました。1882年には心臓病で倒れ、寝たり起きたりをくり返しながら不遇の生涯を終えた。
1890年 キャンパス内のクラーク邸焼失
クラーク、妻・ハリエットと子供たちが住んだビクトリア朝切り妻造りの豪華な家だったそうです。

ウィリアム=スミス=クラーク博士の墓

Main St.からTriangle St.を左に曲がった所にあるWest Cemeteryという1730年にできた墓地にクラーク博士は眠っています。彼の墓は墓地に入って正面の大きい桜の木の下にあるのですぐに解ります。彼の墓を覆う桜は、札幌農学校でクラークの後任として教鞭をとったブルックスが日本から持ち帰った苗木が育ったものだそうです。

墓碑には「教師、兵士、市民としての生涯を神と同胞への奉仕に捧げた、ウイリアム=スミス=クラークの記念に」と記されています。彼の名前の下には彼の妻:ハリケット=リチャーズ=ウィリストン(1917年9月22日没)の名前もあります。また彼の墓の周りを注意してみると、彼の11人の子供たちの小さいはかが取り巻いているのに気がつくはず。クラーク博士の墓の奥にはアムハーストが生んだ偉大な詩人、エミリー=ディッキンソンのお墓もあります。

ウィリアム=スミス=クラークメモリアル

1986年にクラーク博士没後100年の記念式典が行なわれた時に、クラークメモリアルの計画の話が持ち上がりました。クラーク博士の家があったキャンパスの東側の土地を中心として、博士の業績をたたえるために日本風の記念庭園を造るというものでした。博士の邸宅跡地は小高い丘の上にあり、キャンパス全体を見渡すことができます。丘の周りにはU MASSの学生が住むレンガ造りの寮が並んでいます。

U MASSのグリンビー教授は1970年代に姉妹大学提携を結んだ北海道大学との共同製作を提案し、造園を教えている浅川北海道大学助教授と北海道大学出身の造園家・高野文影の協力を得ることになりました。3人の指導のもと、U MASS卒業生のトッド=リチャードソンの設計が選ばれました。

メモリアルの周りには黒い円形の壁があります。この東側の部分はクラーク邸のシルエットで、西側は北海道大学農学部の建物のシルエットになっています。円形の壁の中はベンチになっていて座ることができ、U MASSのキャンパスに北海道大学のイメージを重ね合わせることができるように工夫されているというわけです。ポッキーの写真から、何となくその雰囲気が解りますか?またメモリアルの入り口に2つ、さらに中心にも1つ大きいみかげ石が使われています。中央に置かれた大きい石からは放射線状に出ている大きい細い道がデザインされていて、これはクラーク博士が過去・現在・未来に及ぼした影響を表しているのだそうです。

このメモリアルは1991年10月17日に完成し、U MASS総長、北海道大学学長らによってクラーク博士に捧げられました。East Plesant St.からClark Roadを左に曲がった所にあります。
ここ、クラーク博士記念庭園にて2000年9月13日に
北海道・マサチューセッツ州姉妹提携10周年を記念した式典が行われました。

エミリ=ディッキンソン

アムハーストでもう1人忘れてはならない人にディッキンソンがいます。彼女は父・エドワード、母・エミリの間に1830年にアムハーストに生まれました。一生を独身で過ごし、マウント・ホリヨークカレッジを中退してからは特に、アムハーストの町からほとんど外に出ることもありませんでした。忙しい家事の合間や、家の東側にあった庭でハーブや野生の花の手入れをしながら友人たちに数々の手紙を書き、その中に多くの詩を残しました。彼女の詩人としての才能は内輪の人々にしか知られることがなかったのですが、彼女の死後多くの作品が見つかります。彼女の死から4年たった1890年に妹・ラビニアによって初めての詩集が出版され、彼女の詩は初めて多くの人々の目に触れることとなりました。次第に彼女の詩の全貌が明らかになるにつれて、その独特の作風が評価され19世紀のアメリカを代表する私人の1人となりました。

エミリは生きている間にたった1枚の写真しか残していません。16才の時に撮られたものです。まだ若いのにひっつめ頭をし、真っ黒なドレスを着ていて、質素でひかえめな生活を送っていた彼女の様子がよく解ります。彼女の詩集が初めて出版された時には、この写真があまりにも飾り気がないのでふっくらとカールしている髪型にしたりと、手直しがされたそうです。

エミリの詩

エミリの詩は出版を前提として書かれていないので、そのほとんどにタイトルがありません。現在彼女の詩を読む時に一般的に使われるのが、ジョンソンという研究家がつけた番号と詩の最初の1行です。ジョンソンはエミリの残した詩を年代順に並べ、1番から1775番まで番号をつけるという気の遠くなるような作業を成し遂げたのでした。エミリの詩を知らない人も多いと思うので、ポッキーのお気に入りを1つご紹介しましょう。

A word is dead When it is said. Some say. I say it just Begins to live.

言葉は口にされたら死んでしまうと言う人がある。私は言おう。正にその日言葉は生き始めるのだと。

エミリの詩は表現法も独特で、難解とされる場合も多いようです。でもじっくりと読めば、多くのイメージや思いがそれぞれの言葉に込められていて読者に感動を与えてくれます。機会があったら是非どうぞ。最近は日本でもエミリの詩のファンが増えているようです。

The Dickinson Homestead  ディッキンソンの家

住所:280 Main St. Amherst アムハーストコモンからMain St.を右に曲がった木々の中にあります。ツアーに参加すると家の内部を見学することができます。参加できる人数に限りがあるので、予約をおススメします。夏期は追加ツアーもあります。詳しくはhttp://www.emilydickinsonmuseum.org/を参照のこと。また12月10日はエミリの誕生日を記念して、入場無料となります。

この家はエミリの祖父・サミュエル=ディッキンソンによって1813年に建てられました。彼は町の名士で、アムハーストカレッジの創立者の1人でもあり、3階立てのこの家はアムハーストの町で最もりっぱな家の1つでした。

エミリはこの家で生まれ、祖父の経済状態が良くなかった1840年からの15年間を除き、ずっとこの家で暮らしました。North Pleasant Streetにあったエミリが15年間だけ暮らした家は現存しておらず、現在はガソリンスタンドになっています。この家はウエストセメタリーの向いに位置していて、この家に住んでいた時に書かれたエミリの詩には何故か(というかやっぱりと言うか)「死」をテーマにした詩が多いうです。余談ですが。

この家は1963年にはナショナルヒストリカルサイトに指定され、65年からはアムハーストカレッジが所有・管理しています。中には肖像画やエミリゆかりの品がたくさん展示されていて、ファンにはたまらない場所です。中に入ると広い廊下があり、2階に続く階段の壁には子供時代のエミリ・兄オースティン・妹ラビニアの肖像画がかけられています。ところがこの肖像画は見てビックリ。3人とも全く同じ顔に描かれています。子供の肖像画は健康そうに、幸せそうに描かれるものという一種の決まりがあったんでしょうね。2階にはエミリの部屋があり、子供の時に使ったゆりかごや彼女の白いドレスなどを見ることができます。ドレスのサイズを見ると、彼女がとってもやせていたのが解ります。ちなみにエミリは、ほとんど外に出ることがなかったので、ドレスのサイズも妹のラビニアが代わりに計ったそうです。このドレスにはポケットがついていて、エミリが詩を書いた紙を入れるのに使われていたとか。

家の横には小さいながらも、手入れされたかわいらしい庭があります。当時は14エーカーもの広さがあり、3本の桜の木に加え、プラムやリンゴの木まであったそうですが、残念ながら当時の様子は現在の庭から想像するしかありません。この庭は1972年にスミスカレッジのウイリアム=キャンベル教授によって、19世紀に一般的だった花々を植えて新しく整備されたものです。春から秋にかけて季節の花を楽しむことができます。庭は入場無料で見学することができるので、エミリの詩を思い浮かべつつ是非足を止めてみてください。またディッキンソンやフロストに興味があるならば、アムハーストの公共図書館であるジョーンズ図書館(上の写真)に行くのもいいと思います。詳しくはhttp://www.joneslibrary.org/へどうぞ。

エリック・カール絵本美術館

住所:125 West Bay Road Amherst 行き方:ボストンから約2時間。マサチューセッツターンパイク出口5番から33号線ノースを経て、116号線へ。ハンプシャーカレッジキャンパスの隣り。ファイブカレッジを結ぶPVTAバスでも行くことができます。詳しくは
http://www.picturebookart.org/を参照のこと。

「The very hungry caterpillar(はらぺこあおむし)」を初め、70以上の絵本でおなじみの絵本作家エリック・カールの美術館。作品の原画が飾られているだけでなく、同系色の色を交ぜてオリジナルの色紙を作り、それを形に切って、貼るという独特のスタイルにより、彼の作品がどのように作られるのかその過程も学ぶことができます。自分の大好きな絵本の原画が見れるのは本当に幸せ。お〜この本知ってるって思わず声が出てしまいそうな感じ。ただし、エリック・カールの作品は思ったより数が多くなくて、ギャラリーの半分は他の絵本作家の展示。自分の好きな作家の展示に上手くあたればいいけど、そうでないとちょっと物足りないような気がしてしまうのは私だけでしょうか。何の展示が行われているか、確認してから行くことをお勧めします。エリック・カールさんと奥様もたまに訪れるとのこと。もしかしたら本人と会えるかもしれません。


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